鎮魂譜128
137億61歳?の記憶と記録
2010/1/17(θeda=sun) 旧12/3



☆ 大島から来たムチャ加那、実はマシュカナ?V

D:三井喜禎/『喜界島古今物語』/昭和40(1965)年/
土俗を物語る島の民謡ートバヤ、ムチャカナ(130〜145p)。
参考文献


※ すこし、疲れてきた。
いっとき、息抜きを
(^ム^)

「日本で一番早い沖縄県名護のサクラまつり」のニュースが流れている。
すでに咲き誇っている(?)大島の龍郷のサクラたち。
これから、それを観に行ってくる。
台湾原種の南のヒカンサクラたちは北から南へと咲いていく。

D:三井喜禎/『喜界島古今物語』より

 ムコンジ(向地)と呼ばれていたカケロマのイケンマ。
そこから舟に揺られ、なんと唄いながらやってきたという「マシュカナ」。
そこで、男との出会いがあり、小屋で暮らすことになる。
そのために入り婿であった小野津の与人(有力者)は妻から追い出された。
これも、次に出てくる5人の子どもたちなど、新説が続々だ。
離縁して(されてになる)、マシュカナとの間に5人の子女をもうけた。
長女の名は母とおなじ「マシュカナ」で、次女が「ムチャカナ」だった。
ムチャカナの許嫁に思いを寄せていた島の娘たちによって、
ムチャカナは海で殺される。

▼ 海岸に着いて娘の変わり果てた姿を一眼見た父は、怒り心頭に発し、娘の骸(むくろ)を荒縄でくくりつけて、磯伝いに泊(地名)まで引き廻してきた。泊の小岩の上に穴を掘らせ、ムチャカナの死体を藁筵に包んで埋め、杖にしていたガジマルの枝を、卒塔婆かわりに逆さに挿して、その冥福を祈った。

然るに、塚に立てられたガジマルが、枝をふき枝を伸ばして、いつしか大樹となり、所々に、木根を下ろしては幹になり、後には、50余メートルにも伸びて、世に、偉名をとどろかせた「トバヤガジュマル」は、こうした哀話をひそかに物語っていたのであろう。

文久の頃(1860年代)原木は枯死してそのままであったが、明治3年(1870年)の頃、実徳が、慶 カネに手伝わせ、肥料や赤土を入れて植えかえたのが成長して、二代目のトバヤ・ガジュマルを継承していたと昭和16,7年頃までその面影は偲ばれていたが、今は、姿を消したばかりか、小岩さへ取り払われて道路となっている。(本稿は、拙著「曙の小野津」を参照した。都 豊生、同豊厚妻外数歌人の話を総合してまとめた)。(143p)


※ 『曙の小野津』のコピーが喜界町図書館にあるという。
先日問い合わせたら、行方不明になっていた。
「幻の書」のままだ。



鎮魂譜127
137億61歳?の記憶と記録
2010/1/16(micja=つち) 旧12/2 



☆ 大島から来たムチャ加那、実はマシュカナ?U

D:三井喜禎/『喜界島古今物語』/昭和40(1965)年/
土俗を物語る島の民謡ートバヤ、ムチャカナ(130〜145p)。
参考文献


D:三井喜禎/『喜界島古今物語』より

 ▼  「マシュカナ(浦富とみともいう?)俗に、ヒガン・マシュカナと呼んでいる。ヒガは東でンは語韻がついたのである。大島本島の古仁屋方面を、通例、東(ヒガ)といっているが、此処では、ムコンジ即ち、加計呂麻島をさしている。その、諸鈍の近くに、生馬(いけんま)という小さな部落がある。マシュカナは、その生馬の与人の家柄に生まれた。世にも珍しい美人であったという。古今東西を問わず、美人につきまとうローマンスは数多いといわれているが、マシュカナにも哀話は秘められていた。」(130p))―

 三井版では、時代背景は@茂野版と同じ。
「時は、丁度、琉球国を征服した頃の事で、奄美の島々も薩藩の治下に治められたのであった―始め、鳥島が其の治下にあったが、後で与論島と交換したのである。」という風に、昭和5年、伊波普猷が『南島史考』の序(南島人の精神分析)で( )内に小さく記した、モンダイの「鳥島と与論島の交換説」までが添えられている。ワンにとっては、奄美の類書では見たことがないので驚いた。

 三井の「ヒガン・マシュカナ」は、先行する@茂野の「ムチャカナ」、A坂井の「浦富」、B文の「うらとみ」と大同小異だが、大きな違いは、地名や先祖・子孫の固有名詞などがいくらでも登場すること。
伝説どころかマシュカナ渡来が史実として物語られている。

たとえば、ヒガン・マシュカナは、「ウツワ舟」で、なんと「三味線を弾きながら、声高らかに歌いながら」小野津の渚に寄せてきた。
当時、喜界島でも薩摩が検地のために竿入りをしていた。
そこで、マシュカナは島役人の1人と懇意になる。
マシュカナと二世を契ったその役人は小野津の与人の某(それがし、都 福常祖)で、長男は、俊徳加那という間切横目の要職をもつだけに成長していた家の主人であった。(133p)

喜界の男がA「与人」、B「有力者」であったという設定は同じ。
でも、D三井版では二人の間に生まれ育ってきた複数の子孫たちの証言がある。
A「浦富」B「うらとみ」の一人娘であるはずのAとBの「むちゃかな」とは違い次女である。

▼ (拙著「曙の小野津」より、都 豊生、恒 良徳外歌人数氏談)マシュカナは、子運にも恵まれ、左記の子女をあげている。
1、マシュカナ(長女)、文薗 彰の祖先に嫁す。
2、トバヤ・ムチャッカナ=慶 広信(港 武栄孫)の祖先と許嫁であったが、遭難して嫁がず早世、民謡の女主人公。
3、アーカナ=小野喜元の祖先に嫁す、浜上謙翠祖にもあたる。
4、ジロカナ=求(もとめ)義応、当代文雄の祖に嫁す。(求は前金久)

5、今1人は、野島豊七、12代の祖にあたり、本家を相続したようであるが、位牌が焼かれたらしく、父の名と共に姓名不詳。(134p)

 「12代目の祖にあた」るというヒト(たち)が実存している。
海彼からのマレビト伝承。
小野津という集落では、マシュカナを介してかけろま・喜界島の与人びきのつながりに収斂されている。

次に三井は、@茂野版「ムチャカナ」とA坂井版「浦富」とD自分の「ヒガン・マシュカナ」を比較論評している。
ということは、B文版「うらとみ」はまだ出版されていない、ことになる。
となると、B文の「お通夜舟」や「水葬」、C昇の「うつろ舟」、D三井版「ウツワ舟」などの前後関係が気になる。
だれが、だれから、引用したのだろうか。
同時性とは思われないから。

また、奄美の島々に「お通夜舟」や「うつろ舟」などの伝説が実際にあったのだろうか。
「水葬」や「舟葬」なども未聞だ。
しかし、「葬制」としてはあったのかもしれない。
「フナタビ」は送る側からは、「舟送り」で「舟葬」と同義だったろう。
「ある秋の月の夜、お通夜舟に約一ヶ月間の食糧としてつきたての餅や副食物などを積み込み、晴れ着を着せ果てなき大海原めがけて突き流し我が子うらとみを生きながらの水葬に付した。」(B文版「うらとみ」)
だから、伝承はおもしろい。

 著者は、▼ 「曙の小野津」」収録にあたって、小野津の現実と伝説を中心に調査した結果、ヒガン・マシュカナの哀話をものにすることに成功したのである。マシュカナは5人の子女の母親であり、その子孫も小野津に栄えていることは前記の通りである。而も、死にあたって「ヒガ(生地・東)の見ゆる場所に葬るようー」にと遺言されたとか。その墓所は、今も、ヒガの見える丘の間近な傾斜した所に定められている。明治初年頃まで、愛用の遺品である三味線は墓のある岩室内に吊りさげられてあったが、他びとが来て盗んで行ったと伝えられている。生馬の生家から送られた家のヒトツバ材の柱は、神宮(かみや)の朝 富輔宅の柱(都 豊生談)として残っていたが、20年の空襲で灰燼に帰してしまった。(136p)